May.J はなぜ糞なのか

ネット世界では

「カラオケ芸人」

「他人のふんどしおばさん」

の名をほしいままにするMay.J

 

あの雑音を久しく聞かなくなって以来、芸能人系の記事を見て分析してみた。

 

 

前提として

こいつは「上手いだけ」なのだ。

 

私はキャラソンのカバーとか、他のアーティストのカバーとか大好きである。

MONKIE MAGICとか

初代 アイドルマスターのカバーとか。

 

しかし、カバーは「曲の上手さ」ではなく「歌う人間の個性」を楽しむものだ。

May.J の不快感はそれだ。

カバーとはオリジナルと同じ曲を歌うが、歌う人間の個性を活かす「アレンジ」に近いものだと考える。

しかし、こいつ(May.j)の場合、自身の個性を排除しつつ歌唱力の高さだけをアピールする性質の歌い方なのだ。

こいつが歌うぐらいなら、機械に歌わせても大差ない

 

例えるなら

オリジナル曲が様々な味・香りを含んだ芳醇なスープだ。

こいつのは、スープの上澄みだ。

透明感があって綺麗だろうが水同然で、何も残りゃしない。

本質的にゴミと大差ない

 

そもそも、JPOPに上手さなど誰も求めてはいない。

ベストヒットする性質の曲は、歌う人間の個性・曲・歌詞など

様々な要素が複合されている。

通常のカバーソングが楽しいのは、歌う人間の個性が活かされているからなのだ。

 

こいつのオリジナル曲も聞いたが、「歌は上手い」

しかし、何も印象に残らない。

よくいるJPOP歌手と同じだった。

 

 

技術の高い歌手なんてこれまでに星の数ほどいたのだ。

それだけで売れたり、ヒットしたりするなら誰も苦労しない。

 

こいつの場合、過去の人間が築いたベストセラー・ベストヒットに寄生する形で、メディアに取り上げられてしまったのだ。

加えて、こいつ自身の無自覚な発言から何故叩かれるのかわかっていないのも拍車を掛けたのだろう。

 

私はこいつに対して同情の余地はない。

 

先人の築いた曲への敬意もなく、自分では何も作り上げず、他人の土壌に首を突っ込んでくる。

この不快さはAKBに等しい。

 

コラボと言えば聞こえはいいが、

実のないものは、結局の所ゴミである。

 

一時的に他人のふんどしで、売れて懐は潤ったのだろうが

二度とカバーは歌わないで欲しい。

不愉快だ。

 

ある意味、逆方向にカバーというものの性質を考えさせられる事件だった。

と思う。

 

こいつの曲は二度と聞きたくない。

特に自分の好きな曲を、こいつにだけは歌われたくない。

 

大嫌いだ。

 

あの不快感は時間を置いてみてもやっぱり不愉快だった。