雑文
物を作らないとやってられない。
漸く疲労が取れたので文章がかける。
中々に厳しい状態だったので、書いておく。
疲労が取れない→作れない→頭でぐるぐる→何もできない。
という素敵なコンボ状態だった。
銭湯に行く→体を回復する→漫画喫茶に行く。ComicBusterおすすめ
漫画読みつつ、クラシックを聞いて気分を変える。
銭湯の効果って多分体の要素の入れ替えだと思う。
体内の水分を排出することで体を入れ替える。
献血も似たような感覚を得た。
また行こうかなとも思う。
最近気をつけていることは
・時間を気にしない
・目の前の事をやる
山月記の一節に
「作の巧拙は知らず、とにかく、産を破り心を狂わせてまで自分が生涯にそれに執着したところのものを、一部なりとも後代に伝えないでは死んでも死に切れないのだ。」
ここまで極端ではありませんが私の死生観はカサカサに乾いていて。
人間ごときはDNA情報とクソの詰まった糞袋程度の認識です。
感情なんぞは、人間の生存本能と経験に基づいたものであるという認識です。
人間なんぞは所詮、多少知能の進化した程度の動物でしか無い。と切に感じる次第です。
人間なんぞ動物です。高等でもなければ希少価値なんぞありゃしません。
それを認識した上で何を為すのかが主題となってくるのです。
ですので、店でべらべらと騒ぎ出す。公然の場で騒ぐ。職場で自身の保身のみに終止する。といったゴミをみていると知能の低い動物にしか見えません。
彼らの頭には脳ではなく、ゴミが詰まっているのでしょう。
自身に疑問を抱かない人間は、人間ではなく動物に過ぎません。
其の程度の人間は全く存在価値を見いだせないのです。仮に生存しても下等なDNAしか残らないでしょう。
生物の本懐とは生存し、次代に繋げることだと思いますが、
この程度の認識は一般教養程度。ちょっと考えれば分かる程度のことです。
この程度の認識すら持てず、漠然とした疑問すら持てないのであれば、それは
人では無く動物でしょう。
私の中の人間の定義とは
「自身が動物であり本能的な衝動を持ちつつそれを理解し、理性を以って群れ(公共)を活かせるもの。」だと考えております。
その他には常に変えてゆく意識を持つことでしょう。
言うまでもないほど当たり前の話ではありますが、
環境は変化します。個人の認識できる職場や家庭環境の範囲ではなくもっと広い範囲で、です。
それらを考え常に何かをしてゆけるのが肝要だと思っています。